隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして旧帝大を卒え、某大手SIerに職を得た。性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。もとより彼は、尋常の技術者として一生を終るべき人間ではないと、自ら信じていたのである。
彼の志すところは、単なる出世でも、俸給でもなかった。相場の紛擾の底にひそむ、眼に見えぬ秩序を抽き出し、万人のまだ知らぬ優位を、ただ独力で掴み取ることにあった。市場というこの混沌の裡に、なお数理の支配しうる一線があるとすれば、それを見出し得る者は自分を措いてほかにない。李徴はひそかにそう信じていた。
数年ののち、ついに彼は職を辞した。
人はこれを無謀といった。ある者は、家庭もある身でと眉をひそめ、ある者は、相場などしょせん偶然の戯れにすぎぬと嘲った。しかし李徴は、彼らの嘲りのうちに、凡俗の小心と嫉視とを嗅ぎ取ったのみで、少しも意に介さなかった。
彼は都の寓居にこもり、来る日も来る日も、株価と出来高と決算短信とを集めてはこれを刻み、割り、つなぎ、試し、捨てた。過去十年二十年の時系列を洗い、曜日の偏りを測り、移動平均の傾きを調べ、地合の変化を数え、イベントの前後に生ずる歪みを丹念に拾い上げた。さらに彼はそれらを幾百幾千という条件の組合せに分け、検証期間を区切り、最適値を求め、また疑い、また改めた。
ある時は、ついに得たりと思った。損益曲線は滑らかに右肩を上がり、最大損失率も忍ぶべき範囲に収まり、シャープレシオも見るに足る数字を示した。李徴は夜更けの液晶画面を前に、独り唇をゆがめて笑った。今や自分は、相場の内奥に通ずる細き径を見出したのだ、と。
だが、それを実運用に移せば、たちまち成績は鈍った。検証では鮮やかに現れた規則が、現実の板の前では、まるで人を愚弄するかのように霧散した。勝つはずの局面で負け、避けられるはずの急落に呑まれ、もっとも堅いと思われたロジックほど、無残に崩れた。
しかし李徴は、自らの見立ての誤りを認めようとはしなかった。
市場構造が変わったのだ、と彼は言った。
参加者の性質が変わったのだ、と彼は言った。
ノイズが一時的に優位を覆い隠しているだけだ、と彼は言った。
要するに、世界のほうが悪いのであって、自分の理路が誤っているのではない、と彼は信じたかったのである。
ここに、彼の不幸の第一の因があった。
彼は己が才能を疑うには、あまりに自尊心が強すぎた。そしてその自尊心は、真に高貴なる者の静かな確信ではなく、むしろ傷つくことを怖れるがゆえに、絶えず己を誇示せずにはいられぬ、臆病な羞恥心の裏返しであった。
彼は次第に人を避けるようになった。旧友の来訪を謝絶し、同業者の会合にも顔を出さず、相場についての議論といえば、匿名の場で、見知らぬ相手を罵倒するばかりになった。裁量家を嗤い、後講釈を卑しみ、インデックスに満足する者を凡庸として退けた。しかしその実、李徴がもっとも憎んでいたのは、自分より劣るはずの人間が、自分より穏やかに生き、自分より安定して資産を積み、自分より自然に眠り、食い、笑っているという、その事実そのものであったのかも知れぬ。
数年ののち、彼の資金は著しく痩せた。
いや、全く失われたのではない。かえって、それが彼を一層苦しめた。まだ取り返しうる程度に残っている、という希望が、彼をして撤退の決断から遠ざけたのである。彼は口では、これは長い期待値の揺らぎにすぎぬ、と言った。ドローダウンは織り込み済みだ、とも言った。だがその声には、かつて他人を侮ったあの峻烈さはなく、むしろ自らに言い聞かせるような、寒々しい響きがまじっていた。
やがて彼は昼夜の別を失った。夜半、モニタの青白い光の中でログを漁り、約定履歴を繰り返し眺め、バックテストの成績表をまるで経典のように読み返した。かつて美しかった右肩上がりの曲線は、もはや未来を保証する証拠ではなく、失われた栄光の幻影にすぎなかったが、李徴にはなおそれを手放すことができなかった。
或る夜、旧友の袁傪が、地方出張の帰途、ふとした縁で彼の寓居の近くに宿を取った。李徴の消息を久しく聞かなかった袁傪は、懐旧の念に駆られて彼を訪おうとしたが、夜も更けていたので、翌朝に延ばすことにした。
その夜半、袁傪は奇怪な物音に眼を覚ました。
それは人の呻き声のようでもあり、獣の唸りのようでもあった。間に間に、烈しく鍵を打つ音が交り、何かを掻き毟る気配があった。怪しんだ袁傪が、そっと障子の隙から隣家の窓を窺うと、暗い室のうちに、モニタの冷光に蒼ざめた一つの影があった。
それは李徴であった。
しかし、袁傪はほとんど彼と認めることができなかった。
痩せさらばえた肩は異様に尖り、血の気を失った顔は画面に照り返されて獣の面のように見えた。眼だけがぎらぎらと光り、指は執念深くキーボードを叩きつづけている。時おり彼は、自分の吐いた数式と損益表とを見て、歯を剥くように笑ったかと思うと、次の瞬間には額を抱えて身をよじった。
その姿を見たとき袁傪は、友がついに人間の姿を保ちながら人間でなくなったことを知った。
彼を喰い破ったものは、単なる損失ではない。
己は凡庸にあらずという、あまりに烈しい自負。
しかも、その自負が根においては、己の凡庸を恐れるあまりの怯懦に発していたこと。
その二つが相争い相食むうちに、ついに李徴の魂は、相場の森のうちをさまよう一匹の獣と化してしまったのである。
